光というものは無かった。
闇というものも無かった。
そして、無さえも、なかった……それに似たものの片鱗ですらも……。
ただ 《全ての全て》 だけが、満遍なく、微動だにせず存在していた。
未だ如何なる偏りも、大きさというものの尺度も持たぬその全一存在は、内側すなわち隔たりなき無限にして、外側すなわち周囲なき点であった。
第1章冒頭
発端と発現
時空の有さま 素粒子の振まい
注釈リスト
《初めの動き》として発現した全一存在の意志は、あくまで純粋なる意志であった。言い換えれば、それは動きそのものだった。しかし、この自覚なき能動が自身の“内部”に受動という抵抗を知覚したその“瞬間”に、《それ》は初めて、己が拮抗する二力であり、緊張であるということを意識したのである。
P9 第10行〜
{……}本来的に言って力の意識である全
一存在は、その量および質における全能性を直ちに自覚した。譬えて言うならば、内臓に付随したものをも含めた全身のあらゆる筋肉を、超絶微妙なコントロール力でもって、同時にかつ別々に動かせることを突如として悟った赤ん坊のようなものであった。
P10 第1行〜
原初の起動力によって次々と展開していった、そして“今も”展開している“最中”であるはずの各世界は、互いに接触しないし競合もしない。その理由は単純である 《全ての全て》が幾つの次元から成っているかということに関しては、三次元存在たる我々には計り難いけれども、諸世界の次元がそれよりも一つ低いことだけはまず間違いない……そのため、全てが互いに平行に並んだ平面図形群が各々いくら拡大しても決して接触し合わないのと同様に、万様能動を与えられた世界群は絶対に触れ合うことがないのである。
P11 第17行〜
世界に掛けられた能動よりもさらに古いもの、即ち全一存在の意志であった《初めの動き》の名残もまたある。時間(と我々に知覚されるもの)の不可逆的な流れがそれである。尤も、それが不可逆なのは末端の低次元存在たる我々にとってだけだ。我々の知覚とは、三次元を超えた所にある時空間に“既に”存在している事物の連なりを、現在意識という知覚断面を決められた方向に動かすことによってスキャンしているようなものだと言える。
P15 第5行〜
{……}末端とは全一の対極にある存在状態で、ある限られた特性だけを体現しており、自身以外の全てから分離している。結果それらは世界の直中で、自分の思い通りには決してならぬ他者に囲まれて存在していかざるを得ない。
P15 第17行〜
全末端存在は三次元性の檻に閉じ込められている。それぞれの現在を境にした両側の全領域を、空間として知覚することができない。それらは事象もろとも、既に過ぎ去った時間であり、未だ来たらざる時間である。身体の相対的巨大さに応じて知覚範囲がどんなに拡がろうとも、主観的には全く同様の枷を嵌められているのだ。{……}太陽も、そして銀河系も、走査用端子のスパン以外は全く同様なのである。
P16 第8行〜
世界は自動シミュレーションそのものである。精巧この上ないもので、進展の各時空点で起こり得る全ての可能態が網羅されている。そしてそれらの可能態の全てがそれぞれ次の時空点で起こし得る全ての可能態が網羅され……と、どこまでも続く。これこそ完璧無双のシミュレーションというものだ。
P17 第7行〜
{……}ここで注意すべきは、各時空点で選択肢が無数にあるというわけではなく、重要・瑣末の如何を問わず、分岐した時空点が無数にあるということだ。「無限の可能性」などといった文言は、詭弁もしくは自己欺瞞の産物でしかない。
P29 第14行〜
基本的性向は、素材であると同時に時々刻々の選択の産物でもある。これに則った選択を積み重ねていくに従って、それはますます堅固なものとなっていく。それでも各瞬間に分岐点は訪れるが、長じるにつれ、生の大勢には影響しないような瑣末なものばかりになってしまう。挙げ句の果てに当人の生涯は、その性向だけに彩られた「宿命」と化していく。
P31 第9行〜