ドローイング
自動描画法について
「非在世界 U」において全面的に採用することになった自動描画法とは、意識上のトランス状態における霊媒現象などとは異なり、単に動作上の自動的な運動である。私の場合、以前おこなっていた舞踏(*) を、ペンを持った状態でやれば、基本的にはそれで良いわけであるが、曲がりなりにも絵が微細画になるためには、やはり意識の集中というか透明化は必須である。身体と意識の連携が不十分だと、手のほうが自ずからスピーディーにペンを運んでいる、という体感は決して得られない。そもそも初個展 開催までの約1年間は、身体に微細模様を覚え込ませるための準備期間だったということなのだ。個人的には動作上のトランス状態(もしくは単に「動作トランス」)と呼んでいるこの自働作用を、野口整体では活源運動という。
* 舞踏そのものは必ずしも自働的な芸術ではない。
2008年6月5日
“非在世界” 今後の展開
通算で第6回目になる今回の個展は、フリー歴 わずか3年半ではありながらも、これまでの仕事の集大成というべきものであった。これに先駆け、既に 半 回顧展まで打ち出しているのだから、普通では考えられぬほどスピーディーな 制作・発表の進展も 〔なんせ 恐るべきことに、今年おこなった個展は締めて 4回!〕、私自身にとっては極ごく自然な成り行きなのである。
ここ3ヶ月間はほとんど数珠繋ぎに詰め込んでいた数多画廊企画展において、早くも (「暗躍」 どころか) 紛れもなき具象作品群を発表済みだったということもあって、当展覧会の全体的印象を酷評するならば、画風がバラバラで収拾の付かない 器用貧乏画家の八方美人的作品発表会といったところだったろう (まあ それこそ 「集大成」 というものかもしれぬが……)。
そうした “記念すべき” 個展を終えた上で、次に如何なるものが顕れてくるのか……むろん 描き手たる私自身には自明のことである。 要約するならば -
“帰還してきた模様” によって構成された立体的存在群の超過密な乱動
平たく言えば、『スター・ウォーズ (エピソード3)』 のドッグ・ファイトみたいなものを描きたいのだ。
個展会場でパフォーマンスとして描いた2作を除けば 今回最後の完成作品となった 『Trance 2009』 には、それが正に反映されている……。
おしまいに、今現在 つよく意識している我が信条を掲げておこう。
ブレイクスルーは攻め手のもの。
2009年10月29日
亀谷 稔 非在世界 V 微細画の破綻
BGM Line-Up
@ La Double Vie de Veronique / O.S.T.
A Classics AGATSUMA V / 上妻宏光
B Er Sur / ALESSANDRO GWIS TRIO
C solo piano = solo salt / 塩谷哲
D CHOPIN / NAMI EJIRI
The Additions
・RISE /ANOUSHKA SHANKAR 〔after the 5th day〕
・KuraMotivation /
倉持勇紀 1989-2007 セレクション 〔after the 6th day〕
○○F Quantum of Solace / O.S.T.
〔The secret in the cars for carrying in & out〕
However, I've never done a car chase, merely I'd been chased by the times !
会場
風景
使用画材における或る “拘り”
月を跨いで行なわれた先の個展については、ブログにセミ フィクションとしてその様子を記したので、興味のある方にはそちらを読んで戴くとして、件の記事では触れなかったエピソードをここで取り上げ、一 画材 〔文房具〕メーカーへのラヴコールともしよう。今回つくったDMには、作品タイトルおよびサイズの他に初めて画材を載せたのだが、こと ボールペンについてはその製品名まで明記していたのである 〔ちょうど画像が途切れていて見にくいが、「PILOT G-1 0.7m/m ほか」としてある〕。
正確に言うならば個展直前の或る同日のこと、私のDMを一見した それぞれ全く繋がりのない二人の作家の方々から、異口同音に、このペンに強い拘りを持っているのですか、と訊かれた。そもそも、美術誌の紹介欄や作品カタログに使用画材の品名を明記するという、ごくごく一般的な慣習に則ってそうしたに過ぎなかった私には、“拘り”なる強い指向性を表わす言葉が初め ピンとこなかった……。しかし、ここ1年半ほどの間にいつしか当り前のこととなっていた自らの習慣をよくよく思い返してみると、やはり拘り以外の何ものでもなかったということが、突ぜん自覚されるに至ったのである。
DMに載せたPILOT G-1という製品は、たしか 2006年の晩秋には販売中止となっていた。その時点で既に2年間ほど それ〔パステルホワイトおよび シルバー〕を愛用していた私は、ペン先の口径は太すぎるが芯径が一致する別メーカーの製品を購入し、インク カートリッジだけを抜き取ってG-1のペン先に差して使うようになっていたのだ。そして、その行為が完全に日常的なものとなって久しかったために、自分がG-1に対して拘りを持っているなどとは、露ほども意識していなかったのである。
同じ日に、しかもほんの十数分の間も置かずにお二人から指摘して戴いた己の実状が、このコメントという形に結実している。冒頭にも記したとおり、これはPILOTへのラヴコールにほかならない。どうかG-1を復活させて戴きたいのである。
こういう願いを抱いているのは何もこの私ばかりではない。それは確かなことだ。なぜならば、 当サイトの各ページに貼り付けてあるアクセス解析ツールで調べることによって判明しているのだが 「PILOT G-1」というキーワードの検索結果ページからここに、トップページを経ずして当該ページへと、直接アクセスしてくる人たちが月に2〜3人は必ず存在するのだから……。
2009年2月24日
亀谷 稔 微細画書の世界
2009年 1月29日〔木〕〜2月3日〔火〕
GALLERY 銀座一丁目
出品作はこちら
科学的述語 十連作より
私は絵を本業としているものの、世界認識の仕方からすれば明らかに左脳主導型であり、そのためであろう、どうしても文章表現に対する拘りから自由になることができない。そしてまた、自由になりたいとも思っていない。更に付け加えるならば、私はあくまで散文家であって、決して詩人ではないのである。
詩というものが日常的文脈から離れた孤高の言語体系である限り、それは、詩を吟ずるひとりの個人が、自分の潜在意識内に蠢いている、本人にとってさえ他者以外の何ものでもない自律的な存在群との対話、もしくは対決となることが必至なのである。
映像詩人と謳われた 故 アンドレイ - タルコフスキーは嘗て、詩人という言葉は、詩を吟ずる職に従じている人間を指すのではなく、そうすることが正にいま可能となっている独特な精神状態の謂いなのだ、と語った。この 「注目すべき」 定義にあやかり敢えて記すならば、私は、自動描画という動作上のトランス状態にあるときにこそ、 “詩を書いている” のだと解するべきなのかもしれない。
2009年1月16日 亀谷 稔 本展 最終版