「非在世界」 展望会議


病的な会議 リスト

このページは不定期的シリーズです。初めてアクセスした方は、 先に 「非在U」反省会議を一読していただくと、より楽しめることでしょう。


    「非在世界 V」に否定的なサブタイトルを付けたからって、背水の陣を敷いてるつもりはないんだろう、おまえは?
    いや、ある意味ではいつでも背水の陣さ……自分が5年後に生きてるっていう確信はないんだから。
    そんなことは前提事項だ。要は、その常態にあってどんな作品展をプロデュースするか、ということ……。「破綻」を謳うからには、何かそうとうインパクトのある作品を並べなければなるまい。
    「破綻」すなわち展開に決まってる。ある均衡状態が崩れない限り、新たな展開など起こりようがない。……すでにサイトで公開し始めてる新シリーズは、過去2回の出品シリーズとは明らかに別物だ。
    見た目には、な。だが近づいて観れば、相変わらずの模様が描かれているわけだ。「破綻」しつつある微細画に、おまえは未だ拘り続けている……。
    当り前だろう……ようやく手に入れた持ち駒なんだから……。あの模様は、言葉にして音符……それ自体に意味があるわけではなく、それらを使って何が表現できるかということがネックなんだ。
    ということは、つまり、元もと表現したいことがあるわけではない、ってことだな?
    言葉にできるようなことならば、無いな。……ペン画という手段に到達する2年ほど前、つまり今から5年前には、既に陶作品に微細模様が表われていた……。基本的なその志向はずっと変わらず、ただ描画表面を微細な模様で埋め尽くしたいってことだけ……言ってみれば、強迫観念に駆られているようなものだ。
    それが基本だっていうなら、確かに新シリーズは正に病的だ。アップロードしてる画像では解りづらいが、使ったペンの色でほとんど塗りつぶされてる部分も、すべて模様の重ね描きだからな。キチガイじみてるよ、全く。
    それこそおまえの本望なんだろう、発狂するってことが、さ?
    もはや違うね。そんなこと不可能だってことは、とうの昔に自覚してるのさ。結局のところ左脳主導型のおまえには、どんなに足掻いても本当の狂気など体現できないんだよ。
    ゲシュタルト崩壊に憧れてた時期もあったっけ……。
    ただ日常の賃労働にウンザリしてただけだろう、あれは……。自殺の観念を弄んでいたのと同様、弱々しい現実逃避願望に過ぎなかったんだよ!
    おいおい、なにを興奮してるんだ? 自虐的思考に好んで飛びつき・自ら情熱を燃やすのがおまえにとって快楽だということは知っているが、この建設的な会議におまえの出る幕はないのだよ。
    「建設的」、だって? 建築くずれが何を、偉そうに……。
    話のついでだ、ここでおまえの志向遍歴を明かしておくのも悪くないんじゃないか?
    そうだ、そうだ。どれほど居るのか解らない読者も、略歴がいっさい無し、じゃ欲求不満ってものだろう。
    略歴だったら著書の奥付けに書いてある。このサイトからリンクを張ってある 「版元ドットコム」のネット販売サイトにも……。
    最終学歴と大まかな職歴だけだろう。秘密主義も度が過ぎれば勿体ぶってるように思われるぜ。
    まあ、なんと思われようと構わないが……建築科に進んだのは、子供の頃から好きで得意でもあった美術と、高校で進路を決める際にたまたま成績の良かった理系科目との妥協……。最初の職業としてパースを選んだのは、もちろん、建築と絵画との妥協だ。大学時代の4年間を通じて、建築設計に心そこ興味を覚えたことは、ただの一度もなかったからな。
    画家になれるなどと過信しなかった、その自己客観性だけは評価してやろう。しかし、イラストレーターやデザイナーという選択肢だってあったはずだ。一定期間たずさわったことを無駄にしたくないという、その踏ん切りの悪さが結果的に時間の無駄となってきたのだということを、いい加減、おまえも理解すべきではないのか?
    効率の悪い一生だったということは認めよう。だが、はっきり言っておくが、無駄というものは、いっさい、ない。……いったん断念した事々も、潜在意識の内奥で地道に消化しつづけて、十数年後には自ずから復活し、新たな技法として手に入れる……。絵も、舞踏も、小説も、すべてがに収斂しているのだ。
    絵と舞踏の統合はわかる。でも、その二つと執筆は分離してるじゃないか。ようするに、右脳と左脳はしょせん連動不可能だ、ってことだろう。
    必ずしもそうではない。どんなにイッテる造形作品であっても、タイトル無しでは済まされまい……たとえ『無題』であっても、だ。仮に直感主導で題をつける場合でも、言葉を使う以上は思考機能の関与は免れられぬ。頭さのう を働かせる必要がどうしてもあるわけだ。……題名は、意識的限定であると同時に鑑賞用ガイドでもある。その言葉の選び方次第では、観手それぞれの想像力を微妙に刺激し、日本人がよく陥る「わからない」という感受 停止きょひ 状態を軽減することだってできよう。そこで有効なのが、著書の文体として確立させた別読みルビの濫用だ。たった一つの熟語でも、別々の方向へテンションをかけることによって、喚起させられるイメージが複雑になるのである。そしてこのテクニックは、詩の発想法・表現法となんら変わるところはない。
    なんで文語体で話すんだよ、おまえは? マヌケにも自ら暴露してるように、本来おまえは散文家であって、詩人ではないだろう。
    いや、そう決めつけることもないんじゃないか? たとえば ……。単語と字と音が醸し出すそのイメージの広がりは、確かに詩の領域に達していると思う。
    自“画”自賛、だな。それに、この頭デッカチが言ってるメイン シリーズの一作じゃなくて、「非在 U」 最後の布作品 『全作蜒一』から派生した番外編だ。そもそもあれは、厳密にいえば、絵じゃないだろう……微細「画」書などと自称していようとも……。
    でも逆に、厳密に言って、「書」でもない。……べつに構わないんじゃないか? 書家に言わせりゃ邪道だろうし、大ていの画家も絵画とは見なさない。無理やりレッテルを貼れば 「アウトサイダー アート」ってところだろうけど、文字の選び方・組合せ方が、それにしてはあまりにも知的すぎる……。結局この画家が何者なのか皆目わからない、ということになる。
    作り手が何者か、などということはどうでもいい。全ては作品に帰着する。面白いか、面白くないか……ただそれだけだ。
    作り手にとっても、な。完全な潜在意識主導モードで描いている以上、おまえが最初の鑑賞者というわけさ。その点、まだまだ飽きることはなさそうだ。
    しかし、心しておいたほうがいいぞ。飽きるよりも早く、まともに鑑賞できなく日がきっと来るだろう。……この2年間で、視力が格段に落ちてきた。いつまで微細画家でいられるか、まるで解ったものではない。
    この悲観家め。それがための「破綻」であり、と同時に、生き残り戦略であるということが解ってないようだな。……だてに自動筆記法をマスターしたわけじゃない。それは、眼しかく ではなくしょっかく で観て描くための、いわば失明保険にほかならないんだよ。
    やれやれ、周到というか、姑息というか……。実は、おまえこそが一番の悲観家ではないのか?
    いや、必ずしもそれだけではあるまい。動作トランスの精度は確実に上がっている……。おまえの中の求道家が腕を研きつつあるのさ。そしてそいつの求めるところは、綺麗な模様を克明に記すことではなく……そういうことは前2回の個展でやり尽くしたからな……、多少くずれていてもシャープでメリハリのある線をできるだけ素早く展開させ、図像全体のテンションを極限まで高めること……。その結果がたとえ『微細画の破綻』であったとしても、欲するものを得るための代償として、喜んで支払うつもりなんだろう。
    なにをカッコツケたことを……。あのサブタイトルこそ正に計算の産物だろ……過去の作品群を知っている人たちにとって、個展タイトルそのものが話題になるように、という……?
    あきれた楽観家だな、おまえは。有名画家じゃあるまいし、いったい何人の人間がおまえの転向なんぞを話題にしてくれる、って……?
    その質問はナンセンスだね。注目してくれている人々が十人だろうと十万人だろうと、やることは全く変わらない。身体が最大効率で動いてくれるような心境に切り替えたあとは、切実な興味を持って観察するだけ……。
    そんなやり方をしてるから、だんだん収拾が付かなくなってきてるだろう、最近? 具象の方へ行くのかと思いきや、ここ3作ほどはまたもや違う、しかもてんでバラバラな方へ向かってるようにしか見えない……。
    最終的な見た目がどんな傾向にあろうとも、微細模様というその構成要素にはブレがない……だから、持ち駒なんだよ。さっきも言ったはずだ……言葉にして音符なんだ、と……。まだ成功してはいないけど、いま漠然と目指してるのは 3D絵画さ。画面にピントを合わせずに観たとき、初めて本性を現わすような絵……。それを描くのに、視力の弱化は決してマイナスではないと思う。
    ベートーベンも晩年はほとんど耳が聞えなかったんだろ?
    またベートーベンか、おまえは?! 画家か、せめて造形作家の名前くらい出せないのかよ?
    ところで、“ピアノ弾き”はなぜ発言しないんだ? 前回の会議では、私に仕事をさせよ、などと息巻いていたくせに、ここ2ヶ月ほど、ぜんぜん“仕事”をしてないぞ。
    その理由を、本当にこの私の口いしき を通じて教えてほしいのかしら、そなたは?
    なにを勿体ぶってるのか知らないが、ああ、ぜひとも教えてもらいたいね。癇癪者の不活性化とも関係ありそうだし……。
    二通りの答えがある……そなたたち全員にとって甘いものと、そなたたちの一部にとっては辛いもの……。
    早いとこ話せよ。ここに浮上してきているのは、本当は自分ひとりだけで発言したい、っていう短気なおしゃべり者のほうが多いんだぜ。
    それでは、まず甘いほうから……。だからといって、決して嘘偽りではない。……以前だれかが指摘したとおり、私には音楽的素養というものがない。それなのに、ピアノへの憧れが15年ぶりに「復活」 してしまった。だからといって、そのあいだ「潜在意識の内奥で消化し」 ていたわけでもない。「収斂」 させるに充分な「技法」 になっていないのよ……言わずと知れたことだけれど……。
    ……それで……?
    知らぬ間に刷り込まれていた、親の中途半端な憧れに翻弄されるのは、もうやめることに決めたの。……音楽は、私が使える持ち駒ではない。持ち時間がどれだけ残されているのか解らないのだから、尚のこと、見込みのある持ち駒にエネルギーを集中させないとね。
    やはり、そういうことだったか………。薄うす気づいていた者も、この中に何人か居るはずだ。……で、そのきっかけは例の決定的な一曲なんだろ?
    そのとおり。G. バートン共演のA. ピアソラ 『Laura's Dream』 原曲……あれを聴き込んでいくうちに実感した……好きなときにこの曲が聴けるだけで充分だ、と。そして、こう決意したわ……私は、自分自身の“音楽”を奏でよう。
    ほらほら、先が読めてきただろう。続きを聞きたくない者たちは、そろそろ潜ったほうがいいんじゃないか?
    ちょっと待て。どうしておまえはそんなに嬉しそうなんだ?
    そうだ、そうだ。浮かれ様がまるで尋常じゃないぞ。
    なぜならば、この“ピアノ弾き”が操る“鍵盤”こそ、実はこの俺に他ならぬからなのだ。今の今まで、自分を目覚めさせた黒幕がこいつだっただなんて、俺も知らなかったのさ。
    見え透いた嘘をつくんじゃない。4ヶ月前、こいつはまだ時どきピアニカを弾いていたんだぞ。それなのに、どうしておまえに前回の会議に関する記憶があるんだよ?
    大半の記憶が共有物だ、ってことは説明するまでもないだろう。俺たちの総体に「人格乖離障害は認められない」 というのは、前回の但し書きにおまえ自身が綴った文句だぜ。……だが、そんなことよりも、こいつの話を最後まで聞こうじゃないか。
    前に私はこう言ったはず……本当にやりたいのは、両手で別々の音を紡ぎ出すことだ、と……。
    だから、左手で描くことを許してやっただろう。右手に切り替えたときに、左目をつぶって描くことも……。描き出しの数十分間、たしかにおまえは上手くやってくれた。仕上げを任せられるほどの腕前ではなかったにせよ……。
    身体が本当は何を描きたがっているのかを知りたい……その好奇心がそなたたちにとって禍となったわね。……一月半ほど前、初めて会った気功師から一指禅功という練功法を教わって、それを朝夕のエクササイズに採り入れた。断言しておくけれど、それを始めたのは私ではないわ。そなたたちのうちの誰か、よ。……直立姿勢でリラックスして行なうその練功法は、動作トランスが起こる舞踏モードとは相反するものだったから、いったんは断念しかけたけれど、やがて柔軟にモード転換することができるようになった……。そのころ、いつの間にか私は、右手を乗っ取ることに成功していたわけ……。舞踏モードに移行しさえすれば、両目を開けたままでも、そなたたちの利き腕を完全に制禦できる。
    描写スピードが異様に速くなってきたことにも、自我意識が受け取ってる視覚情報とは異なる感覚を通じてペンを運んでいることにも、むろん気づいていたけどな。
    そう……何かこれまでになく大きな、制禦不能の力に身を委ねているような感覚……。
    それで……? なにか不服はないのかしら……この真相が、辛いほうの答えなんだけれども……?
    特に、ないな。どんな動作であれ、それを一番うまくやれる者がやればいいだろう。分裂を余儀なくされてる特異な生き物に生まれたからといって、その性向に盲従しなければならぬ謂われはない……その体内でいがみ合う必要なんかないのさ。
    自ら動いて他者を喰らう……それが、この中に閉じ込められているもの総体の本性なんだぜ。運動効率の向上につながることであれば、不服どころか、むしろ歓迎するね。
    なんとも驚くべき寛容さだな、左由来の紳士たちは。……まあ、日常動作の大半は、これまで通りおまえたちの領分なんだから、せいぜい感覚を研いて反応精度を上げておいてくれたまえ。
    ちょっと訊いておきたいんだけど、この御調子者は本当におまえの“鍵盤”なのか?
    さあ、私にだって解らない。絵を描いているときにあるのは、ハイ テンションの肉体感覚だけだから……。
    新たな世界でとつぜん目覚めた好奇心旺盛な子供は、自分に何ができるのか確かめたくてたまらない……こう説明すれば少しは理解できるだろ? “ピアノ弾き”にとっての“音楽”は、この俺にとって、自らの機能性なんだ。それを極限まで突き詰めてみたい、っていう俺独自の欲求もある。だからおまえたちには、最近の作品傾向に一貫性がないように感じられる、ってわけさ。……俺たちも、作品も、どんどん変わっていくだろうぜ。……かつてピカソは、「最高傑作は次回作である」と言ったそうだが、俺は謙虚に、「最高傑作は最新作だ」 と宣言しておこう。……では、次の講評会まで、ごきげんよう。
    ………………………。
    なんだか会議の展望がますます不明瞭になってきたぜ。
    バッカじゃなかろか。





 ----------------------------閉会(2.Sep.2008)----------------------------

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