無音だった。
不動だった。
そもそも音や動きを生じさせうるようなものが、そこにはいっさい存在していなかった。
情景と呼ぶに価する形や色の纏まりもなく、物理上は明かりもなければ陰もなく、知覚上は距離というものが存在しなかった。
明るいとも暗いとも判じられぬ淡い光のようなものにあまねく満たされ、唯、かのものがいる位置を中心にして、
太い白色の筋が完全円周の大いなる輪を一つ描いている……変化といえばそれだけだった。
第10章冒頭
均衡と獲得
全一者の本望 末端者の本領
注釈リスト
映像知覚部位を通して体感していた各極微粒子上の多彩で豊富な造形に対し、ここは本当に何も無い異界だった。反響定位で捉えた極微粒子内部の寡色映像でさえ、ここの景色に比べれば複雑な微細構造物の大展望であった……。
P382 第13行〜
{……}高度な連想処理能力を獲得したあらゆる特異種族の全個体が、原理的には実態を認識することが可能であった。ところが、{……}その複雑・繊細な主観連想と過敏な身体の不整合ゆえに、各種族の大半の者らは、冷厳なる真実を自ら携えていくことに到てい耐え得なかった。自身らの本質的矮小性の認識は、弱き者らをただ無気力もしくは自暴自棄へと追いやるだけであったろう……。
P387 第3行〜
{……}本能は身体に具わっているのでもなければ、意識に属しているのでもなく、存在全体に浸透している実体的機構の三次元的顕れなのだ。その全貌が自らの五次元本体にあまねく広がっているが故に、三次元意識にとっては未だ実現しておらぬ己の全可能態を把捉でき、その中から最善の選択を瞬時にして行なうよう三次元意識に強いるのである。
P389 第12行〜
と、いうことは、現実に終焉を迎える三次元存在とは別に、存続していく主観存在が実在している、と……?
往々にして左様。分岐して途絶える存在と更に先へと進む存在……それら全てが形作る分岐経路の体系こそ、あらゆる個体存在がその本体として持つ五次元上の実像に他ならぬ。
P390 第3行〜
そんな……。なんと惨い定めだろう……。想像していたものより遙かに……。
汝が跳躍・同調した過去の時空にて確然と分岐する、自らの破壊装置を発射するという経路から先の五次元体部位においては、その最末端部の大半が早々に途切れている。かの者の場合、短命はまこと定めに近いものであった。
P391 第3行〜
表面生存者たちはなぜ互いに攻撃を……?
力の発露こそが汝らの現実世界における展開形式だからである。尤も特異種族のみは、単に他者を攻撃し己の勢力を拡大するだけではなく、互いに破壊し合わなければならぬ特別の理由があった。
P393 第2行〜
……知れば知るほどその閉塞的状況が現実性を帯びてくる。{……}でも、本当に他に方法はなかったのだろうか? 方法というか、総体的機能としての自己調整のようなものは……?
全く有らざるわけでもなかった。対象集団が過密であるほど効力の増す、逆に下位の存在レヴェルによる統制機構がそれである。同一レヴェルからの攻撃とは異なり、その構成要素に攻性操作を加え、身体内部から崩壊させたり個体発生頻度を低落させるなど、直接間接に作用した複合型制圧体系であった。
P395 第13行〜
でも、それが破壊用であることを知らなかったはずはない。
むろん、自ら志してその操縦者になる以前から然と承知していた。だが、かの者が属していた集団においては、他集団との相互破壊を行なわぬ期間がかなり久しく続いていた故、己が実際に破壊現場へ飛ぶ事態に至ろうなどとは敢えて想像することもなく過ごしていたのだ。ところがいよいよ悲運が発現・起動し、帰属集団が相互破壊を再開した。当然かの者は破壊者として、自身はなんの嫌悪感をも抱いておらぬ他集団めざして発進しなければならなかった。何故ならば、それこそがかれ本来の仕事だったからだ。
P396 第15行〜
{……}だんだんわたしには、同類集団としての特異種族そのものが、どう仕様もなく悲運な存在であったように感じられてきた……。単独では弱いからと集団を作ったらいつの間にか突出してしまい、増え過ぎた自分たちを意に反して破壊しなければならず、各個体は集団を利するために自分自身の自然な感覚でさえ抑えなければならず、不向きなことができなかったというだけで時には帰属集団そのものから被害を課せられる……。わたしの感覚からするなら、個体にとっても集団にとっても何ひとつ善いところのない状態に陥っているとしか思えないのだ……まるで、種族総体が悲運の回路に嵌り込んでいるかのように……。一体かれらのどこがいけなかったのだろう……ただ自分たちの勢力を少しでも拡大しようと努めていただけなのに……?
P398 第8行〜
{………}特異種族はみな、闇を光に変えようとする。 全光源は微粒子の代りであり、 その連なりは宙空領域の投影……。 暗い半球を光で覆うには、全表面を同類で満たさなければならぬ。密集域は各々が微粒団であり、その炎上は衝突による光輝……。衝突の軌跡は破壊力の展開そのもの故に、決して途絶えることはない。なぜならば、相互破壊は同類を減らすだけではなく、闇を照らすための手段だから……。
P399 第17行〜
上位レヴェルからの拘束、存在系内の有用因子……わたしが同調行に発つ前に語ってくれた事々までが、今では然るべき位置に納まって“編目”をなしているのが解る。不動系の生存者たちがその半身を本源存在の内部に差し込んでいたことも、その系統から特異種族が出にくかったことも、全ては系構造上の様態として規定されていたのだ……。
P401 第2行〜
主体的世界か……そう、わたしが望んでいたのはそんな世界だ。無理やり負わされた理に訳もわからず翻弄されるのではなくて、自らの意図と望みを自在に展開していけるような世界……。その自在性は全ての世界内存在に共通するものであり、或る個体の展開が他者の進展と競合することはなく、上位レヴェルの都合が構成下位レヴェルを拘束することもない……。そもそも存在レヴェルの階梯的構造こそ、あらゆる主観存在を圧迫している根源的束縛なのだ。《わたし》 の内部に、そんなものは、要らない。
P402 第17行〜
{……}世界においては自覚がその展開の質を定めていく。理とは即ち在り方そのものだからだ。しかして今ひとつ……既に汝も認識し始めているごとく、己自身のことを真に《わたし》と呼べるのは、全五次元を主観となす世界意識のみなのである。
P404 第5行〜
{……}自己本体といえども五次元空間においては他者の直中に置かれていることに変わりはない。 あらゆる個体はそれぞれ持ち前の力に応じて自らの個体性を占有することができる。他者の渦中で圧搾され“早々に”その末端部を全滅させている個体もいれば、根源的拘束をも振り切って更に可能態を拡張させている存在もある。
P409 第2行〜
主観意識内部の遍し自覚は成就され、今や汝は準備が調った……。これより意識の次元が飛躍を遂げるが、覚悟は如何に……?
覚悟は既にできている。……でも、その前に一つだけ……途方もない願いかもしれないけれど、もしもそれが可能ならば……。
想い残しもまた機能不全の元……。願いとは何か?
《全ての全て》に同調してみたい。
………………………………………………
《影》からの応えはなかった。
P410 第13行〜
{……}五次元本体との接続がとうに失われている汝は、純意識が遍在せし《全て》である。遍在性は無限大にまで及び、純意識は即存在である。全一なる存在はことごとく汝の身体であり、無限なる身体は即ち意志である。そのあらゆる部位が任意の部位と瞬時にして交換可能であり、そ・れ・・・ら・・・・・・・・・
不意に“声”が薄れていった。遠ざかっていったのではない。希薄化し、全自己に浸透していったのである。遂に《全て》は、《全ての全て》に到達した……。
P415 第1行〜