全てのものが緑色がかっていた。まるで光そのものがその色一色に偏光されているかのように、下へ行くほど深みを増していく緑色の濃淡が、長さも幅も角度も異なる無数の縞模様を到る所に描いていた。近景に走る幾本もの影も、それぞれ明度の違う様々な緑色だった。交わり・重なり合って複雑に錯綜したその造形空間にあっては、水平方向の遠近感が希薄になり、元もと視界の浅いその景観が尚さら平面的なものになっていた。
第3章冒頭
奔流と選択
究極の志向 植物の形態
注釈リスト
一者の例外もなく光を喰う生物たるかれらは、唯ひたすら陽光を求めて成長した。他者よりも僅かでも上位を取ろうと柱状の幹を丈高く伸ばし、少しでも多く光を受けようと緑の葉叢を我勝ちに広げるその性急さ・必死さは、正に光争奪戦と呼ぶに相応しいものだった。他者を食い殺して自らの糧とするわけでは確かになかったけれども、己が多くを得たがために遅れをとった他の仲間が文字通りの日陰者となることになど、それこそ全くお構いなしであった。
P68 第18行〜
全生命がまだ海中で生活していた、この時代からおよそ2億年の昔よりも以前から、これら植物たちもまた、「遺伝子」方式をもって生存と増殖のための基本様式とするようになっていた。だが動物と総称される生物群、かの貪食細胞の末裔たる、ひどく活動的ではあるか短命な種族たちとは違い、陸上における多細胞生物としての発達を遂げたこの時代においてすら、未だ究極存在たちとの間に正真正銘の共生関係を維持していた。つまり究極存在たちは全植物個体の各細胞の内に、単なる鋳型ではなく高分子“生命体”としてずっと存在し続けてきたのである。
P69 第18行〜
遮蔽による紫外線除去という異変は確かにやってきた。しかし時節到来に続く一斉行動、という成行きで事が運んだのでは決してなかった。いつ上昇するかの判断と実行は、あくまでも各個体が、厳密に言えば共生関係にある各2者の統合個性が全面的に把捉しているものだったからである。{……}全ての共生個体はこれら二つの性向の均衡点をもってその個性としていた。心という複雑な分裂器官をもたず、そのため存在としての十全性を失っていなかったこの頃の生命体は、群集心理などといったものとは全く無縁だった。
P71 第11行〜
全海域表層が光合成生物の飽和状態に達していた。かれら自身には如何とも為し難い閉塞状況であった。よって、この全種族的危機に符合するかのように、暗黒の深みから次々と未知の細胞生物が浮上してきては、かれらのうち最も逆境にあった者たち、慢性の“食糧”不足に“喘ぎ”きっていた個体群に襲いかかり、貪り食っていったという事態の進展は、またしても場としての上位存在の思惑が用意していた予定通りの解決策だったと疑わざるを得ないのだ。
P72 第9行〜
光合成細胞最初の犠牲者が貪食細胞の先陣に食われかけたとき、共生者の生理的歓喜とは別様の興奮が究極存在を昂らせた。その細胞体内に居たのは“生まれつき”だったとはいえ、共生者の細胞分裂とともに増殖推移してきたその究極存在は紛れもなき直系であり、個体であると同時に系統そのものでもあったから、自分が貪食細胞と共生関係を結ぶことになったその経緯にも通じていた。そして、生き延びるための善後策でしかなかったその関係の相方とは、性向においても姿勢においてもかなり懸け離れていることを自覚していたのである。
P74 第9行〜
史上空前の脱出を決行するに際して究極存在が採った方法は、《沈黙の知》が指し示した万全の手段だったとはいえ、見様によっては自己犠牲的とも言えるほど深刻な代償を要するものだった。何故かと言えば、この方法で脱出できるのは10本弱の保管用配列をそれぞれ先導していく分身たちだけであり、大元の自己たる既存塩基自身は、役割分担上も共生者を欺くためにも、その細胞体内に残していかなければならなかったからである。
P76 第14行〜
最初の究極存在が成し遂げた仕事は、その存在本体を通じて逐いち全系統に伝わっていた。そして各個体はそれぞれ実感体験としてこの全行程を再現し、各おの1体ずつの新光合成細胞を生み出した。これらの新生物たちはいずれも、10前後の別個体から創られた多様なる合成体であり、それと同数の究極存在を身体内に秘めた共生生命体であった。
P79 第17行〜
{……}暫くすると、やはり多細胞化した貪食系種族の一部もまた、その後を追って上陸を決行する。それは単に糧を求めての探索行であっただけではなく、一度は異物排除してしまった己が一部分を渇望しての遍歴行でもあったと言えるかもしれない。
P80 第6行〜
ちなみにこの巨大な草食動物の長い首は、目いっぱい伸ばしきるとちょうどソテツ樹における最上高の葉叢に届く長さだった。この事実は正に、形態にせよ生態にせよ、生命体というものは必要最小限の発達しかしないことの適例である。そしてこの本質的怠惰さこそが、多様化に向けて驀進させようとする場の諸力 母体惑星の《意図》や世界そのものによる規定などに抗うための、生物側の基盤力となっているのである。
P83 第15行〜
植物は動物に比べて、形態上あまりにも一様でありすぎないか?
即座に然り、と答えざるを得ない。その顕著な一様性には、基本形態に対する拘りとも言えるほどの指向性が表われている。それは執拗なまでに繰り返される象徴性のようなものだ。
P85 第17行〜
世界の実情は五次元であるけれども、本来の全き時空間は六次元である。
樹状繊維複合体というモデル- イメージは、あらゆる個体存在の全可能態を網羅した樹状繊維体群が複雑に絡み合って形成している超複合体、という立体像であった。確かにこれは三次元存在たる我々が、現実的には不可視の五次元時空間を無理にでも具体的にイメージするためには優れた想像形体である。個体どうしの錯綜感をうまく伝えられるし、各可能態のずれ故の擦れ違いなども表現することができる。
P87 第4行〜
だがしかし、次元合計数が3の空間と同様に、時間もまた三つの次元を持つと考えて然るべきだろう。{……}時間軸および可能態軸のどちらとも直交する第3の軸は理論じょう存在する。それが即ち不可能態の軸である。
実現確率の問題ではない。この場合の不可能とは、この世界における絶対的不可能に他ならないのだ。時間の多次元における立体的広がり、つまり実態世界の第六次元は、原初の万様能動をもって枝分かれしていった、他の多様世界すべてが存在する時空間なのである。
P88 第6行〜
植物の成長は動物の移動に相当する自覚的な運動である。その速さと主観時間の遅さとが相俟って、この動きはかれらにとって、半意識的な全身運動という感覚を伴ったものになっているはずである。そしてその身体的成長は、原理じょう各個体の全生涯に渡って続くのだ。木本植物の成長が普つう或る大きさをもって止まるのは、他の個体との拮抗だとか、片持ち梁構造としての長さ限界などといった物理的理由からなのであって、その身体能力の限界に達しているわけではない。
P95 第5行〜
全成長過程を体現した身体の例を、翻って動物界に探してみると、巻き貝の他にサンゴ類が顕著な代表として挙げられるだろう。奇しくも樹状形を成すその構造体は、{……}それを構成する個体サンゴ虫を細胞として捉えれば、一生物の身体と見なすことができる。尤も彼らが固着性の動物であるという事実は、この形状の身体が動物の一般的生態に如何にそぐわないものであるかということを、如実かつ逆説的に示しているのであるが……。
P95 第17行〜
擬似四次元形にして五次元実態象徴形……樹木の身体というものはそれ自体が実在世界の啓示なのだ。
P96 第8行〜