万様なる明暗を帯びた、だが一様に緑色がかった造形空間には、幾重にも重なり合った無数の斑模様が到る所に散っていた。昼なお薄暗い地表から、様々な寄・着生植物が纏わり付いた極太の幹を立ち上がらせている大型植物たちは、それなりに多様な種間変異をそれぞれ持ちながらも、みな樹木としての完成形を体現しきっていた。
第4章冒頭
修羅場と離脱
動物の感性 存在の回帰
注釈リスト
{……}いずれも外骨格系の身体を持つこれらの奇怪な動物たちは、もちろん人間が操縦する重機である。
人間たちの獲物は、樹冠に叢なす葉々でもなければ、木の間に隠れ潜む獣類でもなく、森林そのものである。正確には建築資材や紙パルプの原料となる「換金植物」が目当てなのだが、それらの大木を切り倒したり運び出したりする課程で、森全体を回復不能な状態にしてしまうのだ。生物史上これほど横暴な生き物は嘗て存在した例がないだろう。
P101 第6行〜
完全有性生殖系の種族でありながら、相も変わらぬ集団指向性を頑ななまでに維持しつつ、これほど多岐複雑な分業社会システムを築き上げるとは、少なくとも地球上の生物としての常軌を完全に逸脱していると言わなければならない。現にたった1種で全地球圏に拡散し・これを制覇した例は生物史の上でも知られていないし、このサイズの動物にして66億という個体数の夥しさは、もはや単なる異常を通り越して種族総体としての病理現象だと言っても過言ではない。
P102 第10行〜
発達した大脳と器用な両手 この二つが相俟って第3番めの特徴を開花させた。なぜ体外テクノロジーなのかと言うと、人間以外の全生物は自らの身体を変化させることによって、環境を含めた全他者への対応能力を向上させてきたからだ。{……}唯ひとり人間のみは、身体そのものに手を加えるのではなく、道具を作るための道具を考案できる知能を発達させることによって、外部環境を思い通りに“改良”していったのである。
P104 第14行〜
{……}一つ極めて重大な事実を明らかにしておこう 重機類そのものの主な原材料である鉄は、およそ20億年前までの十数億年間に光合成を通じて作り出された酸素が酸化 ・沈着させた、その時代の海中鉄分を採掘したものであり、それらを動かすための燃料は、他ならぬ往年の地上植物の遺骸が変成した液体を精製したものなのだ…………。
P105 第18行〜
動物界に分類されている生物は、全般的に言って非情にエネルギッシュだ。自ら動くのだから活動的であるのは当り前かもしれない。しかしエネルギー効率という点から見れば、動くというその生態にかなりの負担を強いられていることもまた事実なのだ。{……}中でも哺乳類・鳥類といった恒温動物はエネルギーの無駄遣いが甚だしく、動物学においてよく譬えられるのが、四六時中エンジンをかけっ放しにしている車、というものだ。いつでも“発車”できるように必要以上の燃料を大量に消費する、非経済的この上なく、そして手前勝手な存在なのである。
P106 第9行〜
絶えず死と隣合せにあるという点では一部の“特権者”も同様である。これは野生生活における鉄則だと言えよう。ふつう食物連鎖の上位へ行くほど種内闘争が激しくなる傾向がある。特に雄どうしの配偶者獲得争いは熾烈であり、種としての身体力が強大なだけに危険度も非常に高い。また、ペア位奪取や群れ乗っ取りの際に(既存ペアの)子殺しが実行されるのは上位にある種族ばかりだ。{……}それゆえ最上位種とて、いわゆる天寿を全うすることは稀なのだ。
P107 第8行〜
生存本能の表われの違いは、2系統の生物それぞれの主観において死が如何なるものであるのかを浮彫りにする。たいていの動物にとって死は、恐怖と苦痛の後に訪れる。その段階的経過を生々しく体験しなければならないのだ。できる限り逃れようという意識が働いて当然だろう。
いっぽう多くの植物の末路である枯死は、環境の悪条件に個体生命力が敗れたことを意味する。主観上は動物にとっての餓死・衰死のごときものだから、死に至るまでの課程で知覚そのものが漸減していく……。
P108 第8行〜
個体性が強いということは自・他の区別に厳格であることを意味する。大抵の場合それは、過敏と言ってもいいほどの排他性となって表わされる。群居性の動物は、単独で生きるよりも生存率が上がるから仕方なく群れているのである。小規模の群れ〔プライド・パック等〕を作る捕食動物は外部の個体に対して極めて排他的である。そして単独性の動物は、もちろん縄張りを堅守する。
P111 第3行〜
{……}免疫系細胞“軍”{……}の中で識別役を担当しているT細胞は、身体内の“戦場”に出る前に胸腺という器官で過酷な英才教育を受け、これを速やかにパスしなければならない。覚え込みの悪い劣等者は……容赦なく廃棄される。本らい自・他の区別とは斯様に厳格な死活問題なのだ。
P111 第11行〜
{……}そもそも動物においては「生存競争」などといった表現はあまりにも穏やかであり過ぎ、生存闘争あるいは戦争のほうが実態に近い場合が多いのだ。人間が体外テクノロジーの産物として作り出すずっと以前から、自然界では飛び“道具”も化学“兵器”も使用されていたのである。
P113 第3行〜
大きさのレヴェルが3段階へだたると微小存在側の全可能態が顕れてくる、というのが主観三次元“世界”における法則だった。つまり各生物個体の五次元態のほうこそが、太陽にとっての我々の姿なのである。{……}よって、やはり主観三次元上の長い現在を生きている太陽からしてみれば、我々がどんな生涯を主観体験するかということなど全く問題にならない。言い換えれば、無数の可能生涯総体の中で、我々が実際に体験するものと、主観現実とならない他の全てとの間に、全く差がないということだ。
P114 第4行〜
活発かつ巧妙に動き、賢明な選択を繰り返したとしても、やがて必ず死は訪れる 往々にして、突然……。だが、五次元時空間に展開している別の可能態の枝々は、もっと先のほうまで伸びている。……だとしたら、どうなるのか?……また出発点からやり直すのである 己が送ったその同じ個体の生をもう一回、そして何度でも……。
P115 第13行〜
{……}そこには何の移動もない。ただ意識の消滅と再“点火”という一瞬の切替えがあるだけだ。{……}円はあくまで円である。己の尻尾をくわえた蛇である。どこか「死後の世界」のごとき客観的実在領域に抜け出でて、再び現象界に入ってくるのでは更々ない。俗に云われる「臨死体験」などというものは、単なる瀕死状態に過ぎないのだ。
P116 第1行〜
{……}仮に2度めの生で初めと全く同じ生涯しか送れないのだとしたら、何度やり直しても同じことである。もしそうであるならば、生の可能態が一つだけしかないことになる。つまりその個体存在の五次元体は、樹状形を成さぬ唯1本の繊維になってしまう。それは有り得ないことだ。何故ならば、生涯におけるあらゆる時空点で無数の他者が絡んでくるのだから、選択する・したという本人の自覚の有る無しに拘わらず、別の枝を選ばざるを得ぬ状況に繰り返し繰り返し見舞われるからである。
P116 第10行〜
これこそが有名な哲学者や神秘思想家たち{……}が語った「永劫回帰」の実態である。ただし{……}完全同一の生涯を無限回くり返すのではなくて、必ず違った自己生を送り直し続けるのだ。それは本当に些細な違い、生涯の進展そのものには全く影響しないような極ごく些細な違いであるかもしれないが、必ずどこかしら異なっている、それぞれが唯一無二の生涯なのである。
P118 第14行〜
かつて貪食細胞に取り込まれた究極存在の総数{……}から増えることがなかったはずの鋳型種の組合わせは、人間自身の「遺伝子」型よりも遙かに高い確率で他者との一致を見るのである。そしてこの同じ組合わせの鋳型どうしは時空を超えて接続しているから、60兆の全細胞が五次元実態世界の究極存在本体にリンクする媒体となり、同一の組合わせを持った他人どうしをダイレクトに結び付けることになる。これが即ち「過去生」なのである。
P119 第14行〜
{……}デジャ=ヴュは長じてからも起こり得る。つまり意識拡大状態は、ということだ。この変容状態は鍛錬の結果というよりも、むしろ習慣である。
P122 第5行〜
生を手放すということが、人間を含めた全ての生物にとって至難の業であるのは確かである。命ある生き物の常として、如何なる性向・願望を抱いているにせよ、より良い生活を希求すること自体は極ごく自然な姿勢であり、そうであるが故の執着なのだから……。特に動物は自分で何とかすることができると思う傾向が強いが、実際にある程度は何とかなってしまうのだから、更に良い生涯を求めて自己生の別サイクルに飛び込んでいくのも無理からぬことだろう。
P123 第8行〜
生存とは本来的に過酷な闘争である。眼前に迫った敵が、肉が目当ての捕食者であろうと、金銭目当ての狩猟者であろうと、降伏は即ち死を意味する。 (逃走も含め) 闘うか、死ぬか、二つに一つだ。選択肢はそれしかない。………自ら動いて他者を喰らう 動物という系統総体が採るこの生存の在り方自体が過酷さの主要因となっているのだから、或る意味では自業自得とも言えるだろう。しかし、少なくとも個体としての我々は、決して自ら望んでそうなったわけではない。
P125 第8行〜
同一レヴェルにある植物をはじめ、細胞から分子化合物と下っていっても、惑星から恒星と上っていっても、世界におけるあらゆる存在の中で、動物ほどに強く痛みを覚える・感じ得る存在集団はおそらく他にあるまい。全ての意識存在は、淡々とシミュレートされている世界盤上の駒に過ぎないはずだが、その課程において、たとえ微小なる短命者の主観であろうとも、このような否定的感覚が発生したということ自体、実は世界そのものの存在価値に係わる大問題なのである。
P126 第4行〜
広大無辺な世界の中では微小に過ぎる存在集団ゆえ、その世界自身にも全一存在にも決して届くことのない“声”であるかもしれないが、精密この上ないシミュレーション- システムには間違いなく記録されている。それがこの大欠陥世界の確たる証拠として、五次元時空間に存在する樹状繊維超複合体の中に、永遠に残されるのである。
P127 第7行〜
全ての有機生命体は母体惑星の体表器官である。そうであるからには、人類の動向が地球自身の思惑と無関係であるはずはない。「宇宙」空間に飛び出した一生物種としての人間は、正に地球の触手なのだ。もしも将来、太陽系内の他の惑星の大気を地球型の組成に変化させる、などといった事業が実行されたとしたら、その壮大さに隠された実態は、ちょうどイソギンチャクが特殊な触手を伸ばして隣接コロニーを攻撃し、己の勢力の拡張を図るのと全く変わるところはないのである。
P129 第7行〜
{……}幸いにして、種レヴェルの人類の全可能態は銀河系の主観レヴェルまで隔たらないと顕現してこない。もしもレヴェル差が二つの太陽において顕れていたら、その状況は{……}我々の体内でホルモンや「遺伝子」が暴走するようなものなのである。このように類推するに、存在の大きさレヴェルにして3段階の隔たりを要するという五次元態顕現の法則は、世界そのものの機構に組み込まれている安全装置でもあるのだろう。
P129 第16行〜